昭和40年11月15日 夜の御理解



 御理解 第31節
 「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には、礼を言う心持になれよ。」

 信心する者は木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼をいうような心持になれよ、これはどういうようなことを、改めて私今日それを感じさせて頂くんですね。先ほど若先生とここを変わりますときに、下りてからこう、先生こういうことを言うんです。先生この慎むと言うことは、どう言う様な事でしょうか、あんまり漠然とした問いですからどう答えて、慎むちゅうことは慎むことさいち。
 ま言う様な感じですけども、それでは答えになりませんもんですからね。私神様に改めてお伺いさせて頂いたんです。私は思いますね分からない事は何でもやっぱり、お伺いしなきゃいけんと思うですね。お伺いをする真剣にお伺いをすると神様は教えて下さるんですからね。信心を進めていく上に様々な分からん事が御座います。ここはどうする事が本当じゃろうかと言う様な時には、やっぱりお伺いをする事だと思います。
 そして進めていかなければ。勿論それがあの真剣な物でなからなきゃいけん、と思うですけれどもね。そしたら私の心眼に頂きます事はですね、丁度あの鎧兜を身に付けているところを頂きました。こりゃあの世間では一般には、非常に慎み深い人がありますよね。もうものでも声高は言わんと。もう態度でも何でも、実になんかお茶かなんかやっとなさるとじゃろうと、もうほんとに物静かだといと慎み深い人があるんです。
 けども信心でいう、この慎み深いとか、慎むということそう言うことじゃないようですね。よくあの申しますでしょうが、学校の先生、いわゆる教育家とか、宗教家とか、いつも形の上においては、慎み抜いておるような、生徒やら信者の手前に慎みぬいとるわけですね。だもんですからその、なんかレクレーションなんかで、その旅館なんかに、温泉なんかに参りますとですね。
 一番乱れるのは、学校の先生と宗教家だってその、宿屋の女中さんが言うたと言うんですけれどもね、だからそういうものではないと言う事が分かるですね。日頃慎んどるもんだけんぱっとその、日頃抑えておるものが出てく様なもんですね。だから信心でいうその慎む、あの三井教会の初代のみ教えのなかにもございますように、ね、凝りをつますな、こりを積むな、身を慎めと、神様は教えておられます初代に、ね。
 だからここにもその、身を慎めと言う事があるがなら、身を慎むと言う事はどう言う様な事だろうかと、したら神様は、その鎧兜をつけたようなものじゃと、例えていうならば、私そのことを、まあ私自身がその事を通らせて頂いておる事を、まあ話した事で御座いますけれども、例えばなら朝の五時から十二時まで、私はここに奉仕をしておる、まあいうなら、ああいう姿が慎んどるのじゃなかろうかと、ね、
 こりゃもう神様の前にですね、そりゃ形だけ、信者に見せるために慎んどるのじゃないてです。私のあのときの心も形もです、神様は見ておいでである、神様の御守をしておる者としての、慎みというものをです、それこそ申しますなら、もうその便所に立ちたくても、あの七時間だけは、私はもう、便所に立たんという気持ちでおる。謹んでおる姿なんです。ね、もうどうにもその、ま辛抱出来ん様な時には、神様にいちいちお許しを頂いてから、立たせて頂く。
 だから言うならば、どう言う事だろうかね、お互いがこうして紋付袴でも着けておるときには、何とはなしに慎んでおるんだけれども、いったん、さあ紋付袴を脱いであちらに下がると、その乱れてしまうと、だからそのなら、紋付袴をずっと付けておかなければならんかというとそうでもないのです。いうなら、たとえていうなら、立つでもかがむでも、私はご結界で神様に例えば、ちょっと立つでも、お許しを頂いて。
 その立つ様に、あんた方もやはり立たせて頂きます、紋付を取らせて頂きます、袴を取らせてもらいますと、お風呂に入らせて頂きますと、というて神様にお伺いというてもお伺いできんのだから、お許しを頂くような気持ちで、いつもおる事じゃないだろうかね、て私は申しましたことで御座います。ね、私はですねどうしても信心させて頂くものはここのところの慎みを頂かなければ神様に打ち向かわれないです。
 私は只今、ご祈念前に雑談を皆さんとここでしておるわけですね。いろいろのその雑談をしとるです。信心話しじゃないです。まあ子供ん時の話しかなんからか、こうここへ座りながら、そこにお参りになっておる皆さんとです、いろんな雑談をしておる。どうしても私は神様に、ご祈念の時間になるからお許しを頂こうと思うているけど、そのお許しをいただかんのです。
 お許し頂かんなり座らせてもらった。座らせてもらったところが、どうしても天津祝詞にかかれないのです。不思議ですね。そんなに慎みのないと言う事は神様に向かって一辺すぱっと、神様の心に入っていかれないということが分かるでしょうが。ね、もういつでも神様に願われる、いつでも神様にお取次ぎがでける、いつでも神様に御すがりがでける、という状態というのが、慎みの姿なんです。
 ご結界に座っておって、お広前におる信者さん方とですたい、雑談を交わしておる。これはいわゆる慎みのないことで、ですからそりゃもう、私がそういう実感なんかも抜きにしてから柏手打って、天津祝詞を上げればいいんですけれども、これは私のもう性分としてです、そんなこと出来ませんです。拍手もお許し頂かなければ、ね、私の申し上げることは、神様に聞いて頂けれる体制を、神様がこちらに示して下さらなければ、天津祝詞一つ上げられんのです。
 私は、ね、ですから、いかにその慎みと言う事が大事かと言う事、私は感じるんですね。成る程、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う様な心持と言う事がですたい、どのような場合でも、だから神様にお礼の申し上げられるような、私は姿勢であることだとこう、ね、そんな事をほんとに神様にいつも、いつでも打ち向かわれるためには、神様にいつも心を打ち向けえておかなければいけないなと、そんならその裸になっちゃならんのか、踊り踊ったり歌とうちゃならんのかと、そうじゃない。
 それにいつも御の字が付くような気持ち、御踊り踊らして頂きよる、御うたを歌わせて頂きよるて言う様な、実感の中でなければいけないと言う事。だから私はここ例え御結界に座っておっても、雑談をしておるときにはなら、御雑談をさせて頂きよるというのなら良かったんだけれども、ついついうっかりして、ほんとの雑談になっておるから、神様にさあというて、向かわれんのです。そんなに信心というものは、その、その神様と私どもとの間の機微というものはです、言うならデリケートなものなんです。
 してみると私どもは、ほんとにあの雑だなと言う事を思うですね。そんな事を思わせて頂いて、また神様から霊神様へ移らせても、まだそんな事を思わせて貰いよりましたら、そしたらですね、ここの修行生の方達のある人がです、徹さんかも知れん、中野さんかも知れん、若先生かも知れん、久富先生かも知れん、久保山先生かも知れん、まあそれは誰とは申しませんけれどもですね、羽織袴付けとんなさいますとじゃん。
 そしたらその、先ほど御理解の中に、あのちょうどあの剣道の防具を付けておる、ね、慎みと言う事はあの剣道の防具を付けておる時の様な気持ちなんです。言うなら今から試合が始まるという気持ちであってですね、あの試合のときの負けて姿ではいけんとじゃ、いくら防具を付けておっても、いくら紋付袴を付けておってもです、やられたちゅうごたふうなときじゃゃいかん。
 もうなんちゅうか、・・?なふうで、突きそこのうたつがはな、そして立つときにはいつも、礼が言えれる様な心持でおると言う様なことです。木の切り株に腰をおろしても立つ時には、その礼を言う様な心持すらがお互いが忘れておるでしょうが。いつか久保山先生じゃないですけれども、ほんとに親先生、いつもそんな事を頂いてから、善導寺からこう自転車でやって参ります。
 もう今日こそは忘れんぞ、と思うて自転車に乗りよるち、乗って降りるときには、入ってしもうて、あら自転車を拝むとを忘れとった、と言う様な事になって、もうほんとに、私の信心はこんなもんですもんね、というてもういつかそんな事を言われた事があるんですけれど、久保山先生だけじゃない、みんなもそうじゃないだろうかとこう思うんです。定期見せてからこうちょっとバスに乗ってから、ね、
 乗る時にはまあ、乗せて頂きますといよるかしれん、降りる時にはもう定期見せてこうつっと、当たり前んごとして降りていきよる。有難う御座いましたと、もう私は必ず車掌さんにですね、有難う御座いましたと言う事にしてるんです。すと一瞬その事がですね、あの自動車に、その車掌さんを通して、お礼を申し上げる様な気持ちが生まれて来るです。ですから、そういう心を神様にいつも向けておくと言う事がです、ね、隙を作らんと言うことになるわけです。
 どうぞ、信心させて頂くものは、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には、礼を言うような心持になれよ、と仰るのですから、その心持ですら、こちらが慎みを持っておりませんと、忘れてご無礼ばっかり続けるようにならなければならんということになる。ですからこれは、信心させて頂くものの一つの心がけですね。今日若先生がお伺いましたことは、そういう心がけでおらなければならんということなんです。
   どうぞ。